ディネセンの文章を読んでいると、ファンタズムの対象が揺れ動き、同時に主体の位置もまた変わってゆくのを感じる箇所がある。たとえば彼女は冒頭で自分のアフリカへの愛着を自己分析する、「女、そして女らしさへの愛は男性的特長であり、男と男らしさへの愛は女性的特徴である。」だからこそ、彼女はアフリカに着いて最初の何週間かで「アフリカの人たちに強い愛情をおぼえた」というわけである。すなわち彼女は女性として強くたくましい男性に憧れるように、アフリカに憧れたというわけだ。しかしそれにつづく文章で彼女は自分のアフリカへの感動をこんなふうに喩える、「生まれつき動物への愛着を持つ人が、動物のいない環境で成長し、長じて後に動物に接したとしよう。」そう、認識者たる自分が人間であるのに対して、アフリカ人はなんと動物に喩えられているのである。この彼女のアフリカ人への価値は、〈男性としての賛美から、獣性の愛着へ〉反転する、彼女の主体としての位置も変わる。あるいは男性に対して、両義的な感情があるのだろうか?
もとより彼女の〈男性性〉への愛着もたんじゅんではない、いわゆるファザコンのニュアンスもまた見え隠れする。そもそもディネセンの人生は父親の人生をなぞるかのようだ。本書巻末の解説で横山貞子は彼女の父親の人生を紹介している。かれは「若いころ、北米中西部のインディアンの村で白人社会から離れた隠遁生活を送り、狩猟にあけくれた。その体験をまとめた著書『狩猟家の手紙』は1890年デンマークで発行され、高い評価を受けた。(・・・)五十歳のとき、コペンハーゲンのアパートで自殺する。鬱病気質があったそうだが、直接の動機は、医者から不治の梅毒と診断されたためだろう、と息子のトマスが書いている。当時、カレンは十歳だった。」(おもえばディネセンの夫も狩猟家だった。そしてディネセン自身の人生も父親同様、未開社会で暮らし、執筆し、そして夫からうつされた梅毒に健康を蝕まれた。父親の影を追いかけるように。)
それからまたイサク・ディネセンが男名のペンネームであり、彼女の本名はカレン・クリステンツェであることをどう考えればいいだろう? 英語版の著者として彼女は〈男名〉を名乗る。ジョルジュ・サンドのように、あるいはジョージ・エリオットのように? いや、実は彼女は英語版とデンマーク語版をともに出版していて、デンマーク語版においてはカレン・ブリクセン名義で女名で出版しているのである。さらには彼女はミステリ『復讐には天使のやさしさを』においては、ピエール・アンドレセル著クララ・スヴェンセン訳として出版した。(なお、クララ・スヴェンセンは実在の人物であり、ディネセンの読者であり若い教師だったそうな。)
さて、この彼女の、男性名と女性名の使いわけに、どんな動機を受け取ればいいだろうか。
たとえば本文中美しいアフリカの娘たちがダンスする場面において、次のような詩が現われる。「おまえのけだかい両の脚はスカートの裾を蹴って動き/欲望を生み、欲情をかきたてる/ちょうど二人の魔女が/深い器のなかの媚薬をかきまぜるように」このまなざしは果たして「女性として」のものだろうか、それとも「男性として」のものだろうか。と同時に、彼女は男友達のデニス・フィンチ=ハットンとほとんど恋人同士のような関係を結んでいる。
こう考えることはできないだろうか、ディネセンには、〈男〉と〈女〉の性をともに所有したいという願望があったのではないだろうか? あるいは〈女〉であったかとおもえば次の瞬間に〈男〉になっているような意識の状態を希求していたのではなかったろうか? あるいはすでに(遊び人の夫にうつされ)梅毒を患っていたということも関係があるのかもしれないけれど。イサク・ディネセン、あるいはカレン・ブリクセン、彼女は、入植者になることで自由と解放を得たに違いない。吹いてくる風のように差別を"自然"とする時代環境のなかで。
■イサク・ディネセン Isak Dinesen 1885-1962
1885年、デンマーク、ルングステッズ生まれ。二十代前半にはコペンハーゲン王立美術アカデミーで学んだり、パリで絵画の修業をしたり、あるいは文芸雑誌に小品を寄稿したりしていた。1913年に父方の親戚のスウェーデン貴族のブロア・ブリクセンと結婚し、翌年ケニアに移住。夫婦でコーヒー農園を経営するが、まもなく結婚生活が破綻。離婚。単身での経営を試みるが失敗、1931年デンマークに帰国。1933年、当時四十八歳、作家活動を始めた。おもな作品に『ノルダーナイの大洪水』、『夢みる人びと--七つのゴシック物語 1』『同 2』『アフリカの日々』『冬物語』『復讐には天使のやさしさを』『バベットの晩餐会』などがある。