【実際のところ、ベンジャミンとロスコーは互いに取り違えられることが多かった。それはベンジャミンにとって嬉しい話だった――米西戦争から戻ってきたときに感じた身がすくむような恐怖感のことはすぐに忘れてしまい、自分の若い姿を単純に喜ぶようになってしまっていたのだ。ただ、素敵なクリームのなかにうかぶ蠅が一匹残っていた――妻と公の場に出るのが嫌でたまらなかったのだ。ヒルデガルドはもうすぐ五十歳で、その姿を目にするたびにやりきれない気分におちいった……。】
さて、ここで出てくる「蠅」。この「蠅」は…… そう、映画でもまさに「蠅」として出てくる。この時ベンジャミンと一緒にいたのは、ホテルで知り合った女という、これまた小説には一切出てこない人物を相手として。深夜、紅茶を飲もうというその時、交わされる2人の会話は、(記憶があいまいなので表現は不正確です)以下のようなもの。
【(ベンジャミン=ブラッド・ピットが紅茶の準備をしながら)「(紅茶に入れるのは)ミルク? それともハチミツかな? 女「ハチミツがいい」。 ベンジャミン(取り出したハチミツの壜に蠅が浮かんでいるのを女に見せながら)「おっと。一緒に蠅を混ぜるのはどう?」 女「ノー・サンキュー(笑)」】
ハチミツ! ハチの生命の奔流ともいえるハチミツの中に、死んだ蠅を浮かべること。それを妻でない女性に「ノー・サンキュー」と笑いながら言わせること。
この箇所、原文では(実はネットで全文が読めるのです http://xroads.virginia.edu/~Hyper/Fitzgerald/jazz/benjamin/benjamin1.htm)こうなっている。
【There was only one fly in the delicious ointment.】
「a fly」ではない。「only one fly」だ。もちろん、「ただ一匹の」と訳しては小説が壊れてしまうだろうが、この、およそ蠅が出てくるような脈絡のまったくないこのシーンで、There was only one fly と書くフィッツジェラルドが、この「蠅」になにも込めていないはずがない。ちなみにウィキペディアの記述によると、フランス語ではハチドリは oiseaux-mouche と呼ばれ、これを直訳すると 「蝿鳥(ハエドリ)」 となるらしい。まったくもって、できすぎの話なのだが。
デヴィッド・フィンチャーの優れた翻案に導かれてここまで読んできて、ハチドリだのハチだの蠅だの書いたけれども、文庫本にしてたった50ページ、フィッツジェラルドの、実は170くらいはあるといわれている短編の中の一つ、『ベンジャミン・バトン』は、ディテールに情感を込めることもなく、いつのまにか始まり、さっさと物語を動かして、来るべき時が来たらそこで一気に終わってしまう、なんとも清潔な小説である。多くのフィッツジェラルドの小説が描いてきたのが、狂騒の中での短い期間の輝きと、やがてそれらが「崩壊」していくさまだとしたら、闇と闇のあいだに束の間現れた一条の光芒が『ベンジャミン・バトン』であると思う。その光芒には「崩壊」の山なりの曲線はなく、あくまでもまっすぐに、闇から闇へと消えている。
そして、闇と闇、無と無のあいだにある一個人の生は、歴史の大きさの中では、せいぜいハチのブーンという音くらいのものであり、良く言ってかわいらしいハミングのようなものに過ぎない。しかしhum する時にベンジャミン・バトンは、数奇な人生のぶんだけ超高速で、たぶん1秒間で80回くらい羽ばたきながら、1分間に千回は心臓を脈打たせながら、その生を生きたのである。
最後に、ちょっとしたエピソードを。最近、アップル社は携帯電話のCM(iphone3G)にザ・サブマリンズという男女デュオの楽曲『You, Me, and the Bourgeoisie』を起用したが、これをYouTubeで見ると、3分23秒の曲の中で48秒目にハチドリが、1分59秒目にハチが出てきて目を楽しませてくれる。
ザ・サブマリンズは夫婦デュオ。妻のブレイク・ハザードは、フィッツジェラルドの曾孫である。