途中で尻切れトンボになっているフィルムの謎を、奉太郎はじめ古典部の面々に解明してもらうべく試写に招いた、依頼人の入須冬実が登場する場面。物語の展開上、特に重要な場面でもなんでもないのだが、これから解明に向かっていこうとするなにごとかがスタートするにあたって、非常に印象的で、うつくしく、かつ不穏な一節だと思う。
【予想通り、読み通り、地学講義室には誰も来ない。
静かで、平和で、無為だ。文化祭らしさといえば、中庭を挟んだ一般棟の方から微かに喧騒が、その残滓みたいなざわめきが聞こえてくることだけ。素晴らしい。店番万歳。】
――『クドリャフカの順番』より――
こちらはいざ、文化祭が始まってその初日、教室内に留まって店番をし、来た客に文集「氷菓」を売るだけという、このうえなく無為に近いポジションをまんまと獲得した折木奉太郎のつぶやきである。これもストーリー展開上、まったく重要でない場面だ。しかし米澤穂信という作家は、このように、これからなにかが始まる、しかし今はまだそれは始まっていないか、いや、もしかして少しずつ押し寄せてはいるのかな? という微妙な空気感を描くのが非常に巧みである。文化祭とは、そう、高校の文化祭というものは、熱狂や歓喜である前に、いやそれ以上に、「静かで、平和で、無為」なものではないだろうか。それは、「残滓みたいなざわめきが聞こえてくる」ような時間ではないだろうか。「その輪郭はまだはっきりしない」ような経験ではないだろうか。
米澤穂信の「古典部シリーズ」は、いわゆる「日常の出来事」を事件として描いた作品群である。いずれもささやかな、しかし時に深い陰影をたたえた出来事の背景には、どす黒い悪意は不在であり、大きな刑事事件に発展するものは皆無。もちろん、殺人などはまったく起こらない。
「日常の出来事を描いた」青春ミステリ。といえばむろん、北村薫という人がいることくらいは知っている。全部ではないが、円紫さんシリーズも読んでいる。ことに『秋の花』は文化祭が舞台である。米澤穂信が先達である北村薫の青春ミステリを敬意とともに読んできたこと、これも情報として知っている。『秋の花』から「古典部シリーズ」へ? そういう線を読者が勝手に引いてしまうことは、さして強引ではない。継承される青春ミステリ。しかし、米澤穂信が北村薫から継承しなかったものがある。それはなにか。
人の死、である。
『秋の花』は、文化祭という舞台での、女子生徒の墜落死という悲劇を扱った作品である。対して「古典部シリーズ」は、少なくもと現段階で、人の死を一切、描いていない。これは同じく人気シリーズである「小市民シリーズ」の作家にふさわしい微温的な態度といえるかもしれない(しかしもちろん、『ボトルネック』や『インシテミル』を読んだ米澤ファンなら、この作家が死も描けば絶望的に暗い小説も書くことを知っているのだけれど)。
ミステリ音痴の米澤ファンとして恥をしのんで書けば、ミステリの要諦とは、それが徹底して受け身の所作である、という点にあると思う。むろん、古今東西のミステリの中には、犯人が主人公、という小説だっていくらもあるに違いないのだが、概ね探偵だの刑事だのの側から描くとすれば、なにかしら事件が起きた後に、いわば事後的にしか動き出すことができないし、そうであるがゆえに面白いのだと思う。だって、積極的に事件探しにいつも躍起になっている主人公なんて、まったく魅力がないではないか。
その意味で、わが折木奉太郎の「省エネ主義」、起きてしまった出来事や、頼まれた謎解きを、仕方がないから解く、なるべく短時間で片付ける、というやる気のなさ(?)は、まことに魅力的である。折木奉太郎には自ら積極的に探求したい事柄はなく、しかし同時に、そうした積極性を見せる他者を小馬鹿にする類のシニシズムとも無縁なところが良いのである。