一人息子の梅若丸をさらわれた母親が、京から武蔵の隅田川まで放浪する謡曲『隅田川』と、清水寺の僧・清玄が美貌の桜姫に恋い焦がれ、亡霊になっても姫を追いかける「清玄桜姫」の伝説を融合した四世鶴屋南北の『桜姫東文章』は、強姦に殺人、亡霊の出没といった南北が得意とした退廃的な趣向が横溢する名作で、現在も上演されている歌舞伎の人気演目である。この作品を大胆にアレンジして、独自の伝奇世界を作り上げたのが『桜姫雪文章』。著者は二〇〇九年七月に、小説でありながら一種の南北論にもなっていた『鶴屋南北の恋』(光文社)を刊行しているので、本書はその姉妹編といえるかもしれない。
吉田神道を伝える京の名門・吉田家の息女・桜姫は、強盗に犯されたことで妊娠、密かに出産した後、出家をしたいと願い鎌倉の新長谷寺の近くに逗留していたが、犯された時に覚えた肉の快楽を身に宿していた。
桜姫の実家・吉田家では、当主と嫡男の梅若丸が相次いで急死する不幸が続き、二男の松若丸への家督相続を円滑にするため、将軍も帰依する新長谷寺の名僧・清玄を頼っていた。ところが、桜姫の婚約者で吉田家の乗っ取りを目論む入間照門が相続問題に介入。お家騒動が表面化したところに、桜姫の腰元・長浦局が恋仲になった僧の残月と陰謀をめぐらせていることや、照門が手先に使っている惣太が桜姫を強姦した犯人であり、梅若丸の死にも深くかかわっていることなども分かってくる。
古語と現代語(さすがにカタカナ言葉は出てこないが、近代以降に作られた造語は頻出する)が入り交じる文章は、時代小説としては破格だが、これは南北が作った桜姫が、公家言葉と江戸弁をないまぜにしてしゃべっていたことを踏まえた遊び心だろう。
前半は、南北の作品世界を換骨奪胎しながら進んでいくのだが、長浦局と残月が自分たちの女犯の罪を清玄と桜姫に押し付け、寺を追放された二人が時空を超えて江戸にたどりつく中盤以降になると、完全に著者オリジナルの展開になる。
これが成功なのか、失敗なのかは評価が分かれるだろうが、個人的にはマイナス。江戸の歌舞伎や戯作には妖術や呪術がよく出てくるので時空を超えるくらいでは驚かないが、舞台が鎌倉から江戸に変わった途端に、前半に張り巡らせていた複雑な人間関係がリセットされ、桜姫、清玄、惣太の因縁話だけが強調されるようになる。
著者は、原作ではその時々の感情で男たちの間を渡り歩くだけの空虚な存在だった桜姫の内面をクローズアップし、女としての“業”を強調するために不必要なエピソードを削ったのだろう。これは一つの方法として理解できるが、敵味方入り乱れる因果の糸を後半まで持続し、それを織り上げて“大団円”までもってきた南北の緻密な構成と比べると、どうしても見劣りしてしまうのだ。
ただ、このあたりは性別や年齢、原作を知っているか否かによっても判断が分かれるだろうが、あえて厳しくして☆☆☆。追放された清玄と桜姫が貧民窟に身を寄せるシーンで格差問題を描き、虚無を埋めるために犯罪に走る惣太を通して現代を覆う漠然とした不安を表現したところなど、原作を巧みにアレンジしながら現代の読者にも共感できるテーマを描いたことを評価して、☆ひとつを加えたい気持ちもあるのだが……。
とてもおすすめ | ☆☆☆☆☆ |
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おすすめ | ☆☆☆☆ |
まあまあ | ☆☆☆ |
あまりおすすめできない | ☆☆ |
これは困った | ☆ |