妄想は現実から逃避するためのもの、というのが一般的な認識だろう。しかし実際には「単なる逃げ。楽でいいですね」などと切り捨てて済む話ではない。妄想は妄想なりに、当事者に過酷をもたらすのだ。第12回日本ファンタジーノベル大賞受賞作『増大派に告ぐ』は、そのことを伝えてやまない作品である。
本書の視点人物は二人おり、このパートが交互して話は進む。そして妄想を担当するのは一方のパートだけだ。偶然にも『SOSの猿』と似たような構造である。ただし、質感は全く異なる。こちらはもっとハードで、タッチも(下手という意味では全くなく)ごつごつしている。
視点人物の一人は31歳の男性ホームレスである。彼は世界が「増大派」という勢力に支配されているという妄想に囚われている。しかも自分のことを「減少派」だと思っていて、増大派に狙われていると信じているのだ。彼から見れば、知り合いのホームレスが車に轢かれたのは増大派のしわざで、大阪は増大派の完全支配下にある街、自分に石を投げつける子供は増大派の手先に他ならない。ホームレスの男は減少派としての意地を賭け、必死に増大派から逃げ回る。むろん全て一人相撲である。
この妄想自体も面白いが、なぜ彼がこうなったかクローズアップされ始めてからが、このパートの白眉である。母子家庭で育った彼は父の愛を知らず、また家も貧乏なうえに、本人も特に才能には恵まれなかった。長じても人生は全くうまく行かない。ゆえに彼は、元々持っていた妄想癖を昂じさせ、遂には狂気に至ってしまうのである。
この結果生み出された「妄想」は、彼の心に平穏をもたらしていない。彼は増大派に苦しめられ(ていると思っていて)、終始怒りを露にしている。これは本人にとっても決して心地よくないはずだ。しかし、では現実と妄想のどちらがシビアかというと、彼の来歴を振り返ると「現実の方がキツイ」と言わざるを得ず、非常に痛々しい。孤独で虚しい人生を直視するよりも、彼の心は「増大派と敵対する」ことを選んだのだ。……しかし、彼は自分の哀しい境遇を完全に忘れてしまったわけではない。得られなかった人との絆を、どこかでまだ求めていたのか、印象的な行動を彼は何度かとるのである。
そのシーンを中心に、物語にはペーソスがふわりと漂う。めちゃくちゃな妄想の話なのに、そくそくと読者の胸に迫るものがあるのだ。いい小説だと思う。
もう一人は、14歳の中学生・舜也である。彼の家庭は、父の酒乱のせいで荒んでいる。おまけに、父によって殴られた舜也は、頭からガラス戸に突っ込み、顔に一生消えない傷を負ってしまったのである。さすがの父も気まずくなり、かつ舜也も父と口をきかなくなって、家の空気はさらに重くなる。元より母は頼りにならず、昔はよく遊んだ弟とも最近は疎遠。さらには親友とも仲違いしてしまう。ひきこもるわけでも他人とのコミュニケーション不全に陥るわけでもないが、彼はある種清々しい諦念をもって日々を送っている。
家庭・友人・学校などを、舜也はどこまでも白々と見ている。彼にとって日常は完全に閉塞したもので、どうしようもなく詰まらない。この時期の青少年らしい疾風怒濤の精神状態など、まるでない。しかし彼は、近所に最近引っ越してきたホームレスの男(第一パートの視点人物)に興味を惹かれるのである。正確に言うと、その狂気を観察したいと思うのだ。
舜也はホームレスに近付き、終盤では双方向の絆すらできかける。しかし急転直下、まさに唐突に、なぜそうなるのか本人たちにもよくわからないまま、関係性が完膚なきまでに破綻する。そして「現実は非情かつ不条理である」と言わんばかりに、物語はあっけなく終結してしまうのだ。壊れてしまった人格や家庭を癒したり、より良い未来を示唆して「いい話」にするチャンスは、作者にはいくらでもあったに違いない。だが小田雅久仁は敢えて違う道を選んだのだ。その意味と重みをじっくり噛み締めたい。
で、これだけなら「単なる暗くて重い話」だが、『増大派に告ぐ』は紛れもなく活力に満ちている。妙な爽快感すらあるのだから尋常ではない。これには参った。小田雅久仁の筆力は、間違いなく本物である。評価はもちろん☆☆☆☆☆。
とてもおすすめ | ☆☆☆☆☆ |
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おすすめ | ☆☆☆☆ |
まあまあ | ☆☆☆ |
あまりおすすめできない | ☆☆ |
これは困った | ☆ |