伊坂幸太郎は近年、世の中のことを自分で考えるよう読者に求める傾向を益々強めている。このため彼の作品は、娯楽小説の鋳型をはみ出しかけたり、作品の結末の解釈を読者に委ねることが多くなって来た。伊坂幸太郎の名声がまず娯楽小説作家として築かれてきたことを考えると、今後も広範なファンの支持を得られ続けるかは不透明になり始めたと見ていいだろう。しかしやりたいことをやり、表現したいことだけを表現する姿勢は、言うまでもなく作家としては非常に正しい。
『SOSの猿』も、そんな伊坂幸太郎のスタンスが打ち出された作品である。
作品では二つのパートが交互に進む。一つ目は「私の話」である。ここでの主人公・遠藤二郎は家電量販店の店員だが、副業として、イタリアで習い覚えた悪魔祓いをやっている。彼は母親同士が友人の「辺見のお姉さん」から相談を受けて、彼女のひきこもりの息子を助けるよう頼まれる。困っている人を見過ごせない性分の二郎は、その息子・眞人の下へ向かう。
この性分は結果、自分が損をすることにつながる。そこに二郎は気が付いている。しかし自分でも呆れながら、諦念をもって人助けに走るのだ。
一方、もう一つのパート「猿の話」では、システム会社勤務で客先のトラブルの調査を担当している五十嵐真が、証券会社での誤発注による巨額の損失(300億円!)について、原因を探る物語である。五十嵐はあまり人と打ち解けないキャラクターだが、仕事の上では非情に優秀であり、普通はそこまで調べないというところまで調べ、トラブルの本質的な原因を見つけ出す。今回の誤発注の直接の原因は、証券会社社員の誤入力なのだが、そんな入力をした理由(疲れていたのか、疲れていたとすればその原因は何か)を私生活に踏み込んでまで探り当てようとする。むろん周囲には煙たがられるが、本人が無自覚で可笑しい。
過剰な親切心ゆえに過剰に人の面倒を見てしまう人物を描くこと。妙なスキルに秀でた朴訥として何を考えているかわかりにくい人物を描くこと。いずれも伊坂幸太郎の十八番であり、『SOSの猿』でもそれは変わらない。優しいエクソシストと冷静で優秀な調査担当者を、伊坂幸太郎はとぼけたユーモアをもって、魅力的に描出しているのだ。ただし二人とそのパートには、一見何の関係もなさそうで、読者は『SOSの猿』がどういう話か、後半になるまで頭に「?」を抱えたまま読み進めるはずである。しかし心配無用、ある時点で二つのパートは見事に繋がる。
本屋大賞を受賞し《このミステリーがすごい! 2009年版》でも第1位に輝いた『ゴールデンスランバー』は、大団円に向かう過程での伏線回収が本当に見事だった。『SOSの猿』はさすがにそこまで緻密ではないし、全てが理屈で割り切れるわけでもないのだが、どういう話であるかは、ある時点で誰もがストンと腑に落ちるよう作られている。もちろん、最初から綿密に計算されている物語なのは間違いない。二つのパートの関連が明かされる場面は、意外性(孫悟空という単語が一見何の脈略もなく出て来る!)と相俟って、なかなかにエキサイティングである。
未読者の興を殺ぐのでこれ以上はストーリーを紹介できないが、これだけは言っておいても良いだろう。『SOSの猿』というタイトルは、孫悟空に由来する。そして本書は、人々が孫悟空に救われる話である。つまり、作品内で孫悟空が登場するのである。しかし孫悟空が作品世界で「実在する」のか「ある人物の妄想」なのかは最後まで曖昧だ。既読者なら同意いただけると思うが、本書はミステリなのか幻想小説なのか判然としない。娯楽小説として見れば、いずれかはっきりさせても良かったと思う。
しかし伊坂幸太郎は、孫悟空という存在、そしてそれによってもたらされる「救い」を、独特のユーモアとペーソスで柔らかく包み込んでいる。愛でるべきは、作品のその落ち着いた佇まいだと思うのである。
なお本書は漫画家・五十嵐大介とのコラボ企画であり、この二人のクリエイターは、ストーリーは全く異なれどモチーフを共通させて競作する模様だ。漫画の方は2010年2月に『SARU』と題して刊行されるので、読み比べると『SOSの猿』の方もさらに理解が進む――かも知れない。もっともこれは、よりディープに作品を読解したい人向け。漫画を読む趣味がない人には、『SOSの猿』だけでも必要十分だろう。総合評価は☆☆☆☆。
とてもおすすめ | ☆☆☆☆☆ |
---|---|
おすすめ | ☆☆☆☆ |
まあまあ | ☆☆☆ |
あまりおすすめできない | ☆☆ |
これは困った | ☆ |
伊坂幸太郎作品については、以下の書評も収めていますので、ぜひお楽しみください。
『モダンタイムス』 レビュワー/酒井貞道 書評を読む
『ゴールデンスランバー』 レビュワー/杉江松恋 書評を読む
『砂漠』 レビュワー/杉江松恋 書評を読む
『死神の精度』 レビュワー/杉江松恋 書評を読む