本書を読み始めたら面白くて手放せなくなり、第二章を読み終わる頃には、「おお、傑作の予感!」と度肝を抜かれていた。派手さのないシンプルな装幀の中に、こんなスケール大きな歴史のうねりと、ビルドゥングスロマンと、天命に立ち向かう男たちの群像が詰まっているなんて、予想もしていなかったものでよけいに。
しかも、時代小説とは言っても、〈うーん、どうだろう〉〈ええい!悔しい悔しい!〉など会話も平易な現代風。算術や天文、ときの政治情勢など難しいテーマを扱ってもいるが、そのあたりもていねいに物語に溶け込ませてある。時代小説を読み慣れていなくても振り落とされることなく読めると保証します。
さて、本書に描かれているのは、日本初の国産暦「貞享暦」を作るという国家級プロジェクトに生涯をかけた渋川春海の生涯である。碁打ちの名門に生まれ、当人も才能豊かな囲碁棋士でありながら、算術と天文に惹かれる春海。将軍の前で御城碁を打ついわば公務員的な安定職に違和感を感じていたころ、自分の運命を変える人間に次々と関わっていくことになる。
ある日、彼は御登城そっちのけで、「算額奉納」されている絵馬に書かれた設問に夢中になる。当時は算術を記して神仏に奉納する習慣があり、それが自分の成果の発表の場にもなっていた。出題者は名高い算術家・磯村吉徳の門下生・村瀬義益。ところが、自分では解けなかったその難問を一瞥即解した青年の存在を知る。その武士こそ、のちに和算の開祖といわれる関孝和で、春海は終始、関を遠い天体の星を見るように仰ぎ続けるのだ。と同時にその強い憧れは、彼を天下の事業に駆り立てる原動力にもなる。
一方で、彼は大人たちに見込まれる男だった。彼の才能にいち早く気づいていたのは、異能の神学者・山崎闇齋という恩師だろう。春海に帯刀までさせて、北極出地(北緯を知る全国規模の天文観測)を命じたのは酒井忠清という老中。補佐として同行した先で、春海に天と向き合う喜びを教えてくれたのは、同じく北極出地に赴いた医師の伊藤重孝と書家の建部昌明である。伊藤と建部からの信頼は、生涯、春海に“前に進む勇気”を与えた。
また、関と親交を持つにふさわしい男になりたいという願いから、必死に渾天儀(こんてんぎ・天体観測装置)製作する春海を庇護してくれるのは、ときの副将軍・水戸光圀だ。
さらには、22年もの歳月を費やすことになる改暦事業を春海に託した将軍家綱の後見人・保科正之もいる。文治政治を目指した真の改革者・保科が、〈この国の老いた暦を……衰えし天の理を、天下の御政道の名のもと、斬ってはくれぬか〉と持ちかける場面は、胸を熱くさせるシーンのひとつ。
自分の能力を過小評価していた春海だが、こうして運命は否応なく、彼を途方もない任務へと押し上げていく。
渋川春海はこれまであまり光の当たらなかった人物だが、周囲には関和孝や水戸光圀、他にも近代囲碁の祖・本因坊道策といった歴史的有名人がわんさといる。彼らからも一目置かれていたのを見ると、これまでクローズアップされなかったことが不思議なくらいだ。
物語の後半1/3からは、朝廷から阻止され続ける改暦事業をどうにか承認させるためのあの手この手の作戦が展開するが、実は暦に関するもう一つ大きな事件が発覚し、ここも手に汗握る場面である。
何と言っても面白いのは、ひとりひとりの志がつながれて、事業達成へと駆け上るプロセスだ。たくさんの先人たちの思いを受け、その背中を駆け上がっていける者だけが本当の高みにたどり着く。それが春海なのだが、彼が孤高の天才というより、とても人がよくて情に厚い人間的な人物に描かれていて、好感を持つ。
志を貫いた人物伝としても、改暦事業をめぐる卓抜な群像劇としても、存分に楽しんでほしい。
なお、小説舞台の歴史的な背景や本書の文学的な位置づけは、末國善巳氏のレビューに詳しい。そちらをぜひ。
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