佐藤雅美『半次捕物控』シリーズ(講談社文庫)は、捕物帳でお馴染みの岡っ引が殺人などの事件捜査よりも、「引き合い」の取り引きを本業にしていたことを指摘した画期的な作品である。
「引き合い」というのは、窃盗犯が捕まった時に、被害者のところに行って自白に間違いがないか確認すること。これが現代なら(盗まれた金品が戻ってくる可能性もあるので)、被害者は喜んで捜査に協力するだろうが、江戸時代は裁判になって証人として奉行所に呼び出されると高額な手間賃がかかり、それを被害者が負担しなければならなかった。そのため盗まれた金額が少ない時など、懇意の岡っ引に金を包んで、被害をなかったことにしてもらっていた(これを「引き合いを抜く」という)。岡っ引は礼金を貰って「引合い」を抜いたり、謝礼を出さない人間に「引き合い」を付けたりする取り引きを仲間と行い、それが主な収入源になっていたというのである。
これを読んだ時、さすがに時代考証に定評のある佐藤雅美だ、と思った。この評価は今も変わらないが、しばらくして『半七捕物帳』の「春の雪解」を再読していたら、「引き合い」のことが書かれていたことに気付いた。それは何の解説もなく、さりげなく書かれていたので長く見落としていたのだが、江戸風物の知識が増えたことで、ようやく意味が理解できたのだ。と同時に、『半七捕物帳』の奥深さを改めて実感させられた瞬間でもあった。
『半七捕物帳』は、まだ江戸の名残が強く残る明治初期に生まれ育ち、歌舞伎の名作者として江戸の世態風俗を自家薬籠中のものにしていた岡本綺堂が徹底した時代考証を施しているだけに、江戸に関する知識が増えれば増えるほど新たな発見がある。それだけに作品事典や用語解説集のようなものがあれば便利だなと思っていたので、『半七捕物帳事典』は本当に待ちに待った一冊である。
編著者の今内孜は、日本シャーロック・ホームズ・クラブの会員とのことだが、綺堂が『半七捕物帳』を書くにあたって参考にしたのがドイルの『シャーロック・ホームズ』シリーズなのは、あまりに有名。ホームズものには、M・バンソン編著(日暮雅通監訳)『シャーロック・ホームズ百科事典』(原書房)、小林司・東山あかね編『シャーロック・ホームズ大事典』(東京堂出版)、J・トレイシー(日暮雅通訳)『シャーロック・ホームズ大百科事典』(河出書房新社)といった事典類が数多く出版されているので、シャーロキアンの著者にとって、半七事典を作るという発想は自然だったのかもしれない。それにしても、全九八〇ページの大著を(綺堂のエッセイなど再録はあるにしても)一人で書いてしまったのだから、その尽力には頭が下る。
当然ながら内容も充実している。『半七捕物帳』全六九話や作中人物の紹介はもちろん、「岡っ引」「八丁堀同心」「与力」といった捕物帳によく出てくる職業から、「麹町」「淀橋」などの地名、「清水山」「新田神社」といった名所旧跡や寺社仏閣、「四万六千日」「団子坂の菊人形」などの年中行事、さらに江戸言葉や幕末の風俗、コレラの流行や安政の大地震といった史実までが丁寧に解説されている。
劇作家で怪談好きたった綺堂らしく、作中には芝居や戯作の引用や見立て、あるいは怪談が発端になる事件も多いのだが、それらの元ネタの指摘は歌舞伎ファンや怪談マニアも満足させることだろう。本書を片手に『半七捕物帳』を読んでも楽しいだろうが、各項目の末尾には、その言葉が『半七捕物帳』の中でどのように使われたかも書かれているので(しかも引用の底本は、様々な“配慮”で文章が改められる前の、春陽堂文庫と同光社版という硬派なところも嬉しい)、本書を読めば自然に『半七捕物帳』を読みたくなる構成になっているのも見事だ。著者の半七研究をまとめた五〇本を超えるコラム、綺堂が『半七捕物帳』について語ったエッセイ、『半七捕物帳』の執筆順リストや事件の発生年月日一覧、『半七捕物帳』年表といった資料も充実しているので、まさに「事典」の名を冠するにふさわしい。
さすがにお手ごろな価格の本とはいわないが、半七事典としてだけでなく、市井人情ものが好きな人にも役立つし、純粋に時代考証を学びたい人や、人気の江戸文化歴史検定を受けたいと考えている人なども活用できる汎用性もあるので、決してコストパフォーマンスは悪くない。しかし、カラー口絵で使われている綺堂の肖像や『半七捕物帳』の書影がそれほど珍しいものではないので、それらを省いて値段を下げることもできたのではと考えたり、現代でも常識の用語がわざわざ項目として立てられている不思議があったりが気になったので、☆☆☆☆。ただ星の数とは無関係に、時代小説や時代劇が好きなら、一家に一冊あっても損はない労作です。ちなみに、岡っ引と「引き合い」については、本書でも触れられていないようなので、参考までに。
とてもおすすめ | ☆☆☆☆☆ |
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