団鬼六が経営していた制作会社“鬼プロ”が発行していた雑誌「SMキング」。『悦楽王』は、一九七二年八月の創刊から一九七五年三月の終刊までの短い命ながら、今も伝説として語り継がれる雑誌の興亡と、“鬼プロ”に出入りしていたアヤシイ人たちとの交流を綴った著者の自伝小説である。
まず驚いたのは、元英語教師だった著者が、テレビの制作会社で『バークレー牧場』や『ヒッチコック劇場』といった海外ドラマの吹き替え台本を書いていたことと、当時はSM雑誌が五誌以上あって、売り上げがそれぞれ約十万部、原稿料が一枚一万円(大卒初任給が五〜六万円の時代である)、そこで著者は月産三、四〇〇枚(つまり月収三、四〇〇万円!?)の原稿を書いていたことである。当然ながら、制作会社の給料より副業の収入が上回っていたので、著者はエロを制作するプロダクション“鬼プロ”を立ち上げ独立することを決意。SM小説の第一人者がSM雑誌を持っていないのはおかしいという取次と印刷会社の後押しもあって、「SMキング」の創刊してしまうのである。
といっても著者は編集の素人なので、取次から紹介されたベテラン編集者を雇うのだが、彼らは知的で文学的な香気のあるSM雑誌を目指したため、返本の山を築いてしまう。そこに、SM趣味がある川田という大学生が入社を希望してくる。この時、著者が出した入社試験が、自分の前で女性とセックスをするというもの。このとんでもない試験をクリアした川田は、転職するたびにセックス・スキャンダルを起こしていた美人編集者、苦学している女子大生に愛人を斡旋している男などを編集部に引き込み、旧世代を追放。著者と共に斬新なエロ雑誌を作っていくのである。
川田たちは編集の経験は乏しいものの、若さと素人だからできる大胆さで、新しいものを次々と取り込んでいく。澁澤龍彦も絶賛した秋吉巒をカバーイラストに起用。さらに挿絵や絵物語を人気の緊縛絵師・椋陽児、前田寿安、沖渉二らに依頼、有名な緊縛師を使ってグラビア写真に力を入れるなど、ビジュアル面を強化。千草忠夫、芳野眉美、安芸蒼太郎らに官能小説を書かせる。中には故人もいるが、後に熱狂的なファンを持つエロ業界の大御所になる人たちを揃えていたのだから、「SMキング」が“伝説”といわれるのも納得できる。若者たちが趣味と実益を活かし、売り上げが落ち込んだキワモノ雑誌を再生していくプロセスは、まさに裏『プロジェクトX』。読んでいるだけで明るく前向きな気分にしてくれるだろう。
だが、それ以上に面白いのは、“鬼プロ”に集まった著名人のエピソード。
たこ八郎は、前の制作会社に声優として出入りしていたものの、ほとんど使いものにならず、著者が引き取って〈たこ劇団〉の座長にしたという。その〈たこ劇団〉に出演を希望したのが、ストリップ劇場の座付き作者として全国を巡業し、幕間のコントに喜んで出演していた田中小実昌。北欧からポルノビデオを仕入れ、“鬼プロ”で試写会を開いては売りさばいていたのが、まだ清水正二郎のペンネームで性豪小説を書いていた頃の胡桃沢耕史。そのほかにも、上京してきた谷ナオミがロマンポルノのスターになるまでが描かれていたり、渥美清の微笑ましいエピソードが出てきたりするので、芸能や文壇のゴシップが好きなら絶対に楽しめる。
アングラ映画の紹介と批評で有名な佐藤重臣が「SMキング」に寄稿していて、浣腸プレイも苦手な著者にスカトロジーについて語ったエピソードや、篠山紀信が著者監修の緊縛写真集のカメラマンに立候補したものの、篠山紀信を知らない著者が、面接をしたうえにサンプルとして持ってきた写真を酷評した話などは、とにかく笑える。
まだ“サブカルチャー”や“アングラ”が力を持っていた時代とはいえ、“鬼プロ”という胡散臭い拠点が、何か新しいことに挑戦したいクリエーターを惹き付けた事実は、驚愕に値しよう。第一次オイルショックで日本中が不景気にあえいでいた時代に、好き勝手なことをやって華々しく散っていった人たちの青春群像は、やっていることはエグいのに、爽やかな感動を与えてくれる。そのギャップも面白く、☆☆☆☆。
とてもおすすめ | ☆☆☆☆☆ |
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